2022年8月1日月曜日

ANZAC、トルコ軍両方にとってとても悲惨な戦場だったガリポリートルコ陸路の旅日記ーGalipoli

皆さんこんにちは!Sailing Stamperウェラード里美がお送りする手作りカードとギリシャ船上生活レポの世界にようこそ!





第一次世界大戦中、連合軍側に加わったソ連からの物資や軍事援助の航路を確保するめダーダネルス海峡を制覇しようとした戦いがガリポリ戦争です。日本人にはまったく馴染みがないかもしれませんが、オーストラリア人の主人にとってはとても重要な場所。今回のトルコ陸路の旅ではトロイに並んでメインイベントの一つです。


7月31日、朝はホテルの部屋のテラスで前日買ってきたパンと紅茶、ヨーグルトなどで軽く。

ジャムはホテルオーナー手作りを受け付けで買いました。涼しくてエアコンなしでOKです。


その後ANZACゆかりの場所に出かけました。オーストラリアでは毎年4月25日になると、ここガリポリで行われる慰霊祭のテレビ中継とともに、オーストラリア各地にある戦争関連の記念碑がある公園などで、ガリポリ上陸時間の夜明けに式典を行います。テレビで観ていたのは上陸したビーチでの慰霊祭だけだったので、それ以外にもこの地域には沢山のゆかりの場所があったなんて、実際に来るまでしりませんでした。しかもガリポリの戦いといっても、実際の場所はガリポリの街ではなく、Kocadereという街の付近。実際の戦いがあった海岸線やAnzacが上陸したビーチは当時は無名ビーチだったよう。

一番有名なのはオーストリア、ニュージーランド兵が上陸したことから名づけられたAnzac湾。そこで式典が行われています。それを見に行く途中で、上陸後にトルコ軍と激しい衝突が起こった場所に、墓地があるのがわかりました。これもその一つ。十字架があったのでトルコ軍関連のものではないことはすぐにわかりました。


こんな風にちゃんと、英語とトルコ語で書かれた説明書きの看板が各所に設置されています。

この地で亡くなった方の墓標。みんな19歳から25歳ぐらいまでの若い方が大半。

ガリポリの戦いやANZACデーとか、日本の方にはなじみがないですよね。私が拙い文章でご説明するよりも、わかりやすい説明を見つけたので、以下トルコツアー催行の旅行会社のサイトからの引用です。(ここクリックでオリジナルサイトに移動できますよ。)

ガリポリ半島上陸作戦


悪天候から回復した1915年4月25日に英仏軍とオーストラリア・ニュージーランド連合軍(ANZAC)による上陸作戦が開始されました。戦艦からの砲撃や、航空機からの偵察や爆撃などの支援を受けて、総勢7万8千人の連合軍兵士がガリポリ半島に上陸しました。

主力部隊であるイギリス軍の第29師団は、ダーダネルス海峡入り口のヘレス岬の5箇所のから上陸しガリポリ半島を北上する作戦でした。ANZAC軍はヘレス岬の北にあるカバテペのビーチに上陸し、第29師団をサポートする役割でしたが、上陸地点を間違え、実際はカバテペより1.5kmほど北にある名もないビーチに上陸を行いました。

オスマン帝国軍からの攻撃を受け多くの犠牲者を出しながら、第29師団はヘレス岬の3箇所に上陸し、ANZAC軍もガリポリ半島のビーチに上陸を行いました。連合軍を海に押し戻そうとオスマン帝国軍は猛攻を行いましたが、戦艦からの援護と粘り強い防御によってこの攻撃を防ぎました。

連合軍も陣地を広げるためにガリポリ半島に沿って北に進軍をしますが、オスマン帝国軍に地理的な優位を取られ激しい抵抗を受け、進軍作戦はことごとく失敗に終わってしまいました。前線に塹壕を築いて粘り強く戦う連合軍に対し、オスマン帝国軍も決め手がなくなり、戦争は膠着状況となってしまいます。開戦当初は短期間で決着がつくと考えていたチャーチルや連合国軍ですが、オスマン帝国から予想以上の反撃を受け、その考えは崩れ去ってしまいました。ー引用終了




上陸する際に待ち伏せされて、しかも間違った場所に上陸(丘の上から見晴らしがよかったので丸わかりだった。)してしまったため、犠牲者が多数だったオーストラリア、ニュージーランド兵の悲劇の部分だけは良く知られているのですが、その後無事上陸できた兵士たちの、そこからの死闘に関してはあまり知られていません。これは地面に溝を掘ってそこに隠れて攻撃していた場所。オーストラリアニュージーランド側のトレンチ(溝)跡です。
トンネルも彫られていて、上陸した場所からトレンチへの物資補給に使ったり別の場所への移動に使われていたそうです。またトルコ側でも同じようにトンネルを掘っていたのですが、敵陣の下までトンネルを掘り、そこに地雷を埋めるという攻撃方法が、トルコ軍によって初めて当用され、その後そういった攻撃が広まっていったそうです。


車が止まっている先がトルコ軍のトレンチ。たった40メートルぐらいしか離れていない!

こちらがトルコ軍側トレンチ跡。実際はもっと深かったのですが月日と共に埋もれてきたんでしょうね。



海外近くのANZAC占領地の一つ。ここはとても重要拠点だったそうです。

丘の上は見晴らしがいいので、トルコ軍もなんとかこれ以上占領されたくなかったので、必死に攻防したそうです。これはAnzac側の墓標。

ここに来るまで知らなかったのですが、この地はトルコ人にとっても特別な思いがある場所だったんです。トルコの中でも悲惨な戦いが行われた場所で、観光バスが何台もやってきていました。連合軍がソ連と手を結んだことで、黒海に続くダーダネルス海峡をなんとしても死守しないとドイツ・トルコ軍は非常に不利になってしまうため、どうしてもこの地を手放すわけには行かなった感ですね。連合国側は、当初トルコ軍を甘く見ていて、攻撃すれば短期間で陥落すると思っていたんです。でも予想外にトルコ軍の抵抗がすごく、時間がかかりその間にトルコ軍の援軍がやってきいて、最終的に連合国側が撤退することになりました。その際、トルコ軍側でもなんと約87000人もの犠牲者を出した激戦地だったんです。

このQuin‘s Postにはすぐ近くにトルコ軍の大きな記念塔がたっていました。


予想外のトルコ軍の攻撃は、トルコ軍のムスタファ・ケマル大佐という優秀な指揮官の手腕のたまものでした。このでっかい壁にような記念碑にはトルコ語でムスタファ・ケマル大佐の活躍ぶりが書かれていました。


下に英語で小さく解説もあるので、何が書かれていたかわかりましたよ。最初、連合軍はこの地を守っているトルコ軍よりも数で圧倒できるので、簡単に勝利を収めることができると思っていましたが、ムスタファ大佐が「我々の部隊は勝つために戦うのではない。死ぬために戦うのだ。その間に援軍がくるまでなんとしても持ちこたえるんだ。」と自らを犠牲にして援軍がくるまでの時間稼ぎをすることが使命なのだ、と率いていた57部隊を鼓舞したそうです。自殺行為ともいえる勇敢な戦いぶりのおかげで、作戦どおり時間稼ぎをすることができ、援軍が間に合ったので、連合軍を撤退に追い込むことができたそうです。

沢山のトルコ人の方が見学に来ていました。

この丘が重要だったのは一目でわかりますね。この眺め!左がAnzac湾で右奥がイギリス軍が上陸計画を立てていた場所です。その湾は今でもアンカリングができる場所ですが、Anzac湾は禁止です。

ここにもトレンチ。これはトルコ軍のトレンチです。

その後、いよいよメインの場所、Anzac湾の式典が行われる場所に行きました。ここが毎年テレビで放映されている式典の場所。

看板には、ここは沢山の方が眠っている場所なので敬い、騒いだり遊んだりしないでください、という看板がありました。


柵がたっている場所は遊泳禁止みたいです。同じビーチのちょっと離れた場所では泳いでる人が数名いました。

ここから上陸してきたんですね。上陸できても攻撃されて海から出る前に亡くなってしまった兵士も沢山いたでしょう。



主人の曽祖父は第1次大戦で出征しています。エジプトにまず送られて訓練を受けましたが、幸いフランスの戦地に送られたので生還することができたそうです。ガリポリだったらまず無理だったでしょう。やっとこの場所に来て、何か思うことがあったのでしょうね。主人は無言でビーチを歩きながら石ころを拾っていました。

ミニバンに乗ったアメリカ人らしき観光客の中の、20代前半の女性たちが靴を脱いで海に使って遊んでいました。この場所の意味がピンと来ていないんでしょうね。私はオーストラリア人じゃないですが、移住して20年近くたっており毎年アンザックデーの事を見聞きしているので(シドニー中心部では退役軍人のパレードが行われます。)、私もこの場所に対して厳かな気持ちを感じました。規模は違いますが、日本人が平和公園を訪ねる時と同じような気分かも。




オレンジ色の部分が上陸する場所として計画されていた場所。何か所あります。


最後に、このあたりで一番大規模な墓地、ローンパインに向かいました。

ギリシャレスボス島にいる時も、ガリポリの戦いやこのエリアの戦いで犠牲になった連合軍の大きな墓地を訪れましたが、それより少し規模は小さかったのは、ここに眠っているのが主にオーストラリアとニュージーランド兵だからです。レスボス島のは、フランス軍やインド兵などの墓地もあったし、ガリポリで負傷した後にレスボス島で亡くなった方達でした。



正面のタワーの両側には亡くなった方たちの名前が刻まれていました。墓標があるのは、おそらくご家族が墓標の手配をした方達だけだと思います。中にはその後ご家族の消息が分からなくなっている方もいらっしゃるんでしょうね。

タワーの四方にはニュージーランド兵の犠牲者の名前が刻まれていました。

これはオーストラリアのパスポートについている図柄と同じです。国の紋章というのかな。


今回の陸路のトルコたびは、トロイとガリポリ見学がメインでした。二つの目的をやっと果たすことができ、とても満足。特にガリポリ見学は、トルコ側にとってもここでの戦いは本に悲惨で後世に語り継がれる大切の歴史の一つだったことがわかり、すごく勉強になりました。物事必ず両方の面があるんですよね。だから事実は当事者の数だけある、ということです。戦地跡を見ていた時「こうしている間にも、この地からそう遠くないウクライナでは犠牲になっている人たちがいるんだ。」と思ったら、胸が熱くなりました。

食事をする場所が、エジェバトの港付近にしかないので、見学を終えて午後2時半過ぎに港に戻り軽食を取った後ホテルにもどりました。それからいつもの通り夕方までお昼寝。もう習慣になりつつある!


夕方6時半すぎに夕食のため、再度エジェバトに戻りました。フェリー乗り場付近にあるレストランは大衆食堂的でお値打ちでいいんですが、同じようなものばかりなので、ちょっと飽きてきてました。海岸沿いでもう少し港から離れた方にちょっといい感じのレストランがあることがわかり、そこに行ってみることに。

このあたりでは珍しいおしゃれ系レストラン。

この素晴らしい景色を眺めながらの食事は、エジェバト最後の夜にはふさわしい!遠方にみえるのがチャナッカレの街です。
チャナッカレの方角からヨットが一隻海峡を横断していました。あのアンカレッジに向かっているようですね。今日は風も比較的穏やかで海面もあまり乱れていませんから。

前菜はアーティチョークのオリーブ漬け。一見なんだかわかりませんでした。アーティチョークとは思えないぐらい柔らかく、それでいて歯ごたえがあって美味しかった!

小エビのガーリックバター炒め。


トルコに来てから気に入っているのは、白ワインです。どのレストランでもハウスワインが美味しい(私し好み)のです。ギリシャよりもトルコの方が白ワインに関しては絶対美味しいなと思いました。ハウスワインってお値打ちなものなんですけどね。外れたことが一度もない!

メインはお魚グリル。これ絶対日本人好きですよね。ご飯と一緒に食べたくなります。塩とレモンでさっぱりいただきました。

さて、陸路の旅のメインイベントを消化して、次はイスタンブール観光です。イスタンブール行はチェスメに来てから思いついたことなので、特にどこに行きたい!っていうのはまだなく、着いてから色々調べてみる予定。3日間滞在予定です。いっきに行ってしまうのではなく、今日8月1日はその中間地点の街まで行って1泊して、明日2日からイスタンブールに到着です。一日のドライブ時間を3時間以内に抑えるようにしているので、その分時間はかかっていますが、観光地ではない途中の小さな田舎町滞在がとても面白く、トルコの素顔が見れている気がします。それに、セーリングで来ていたら多分まだチャナッカレに到着してなかったかも!

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